高校卒業を来年に控えた藤本と安孫子はアセる。なんとか漫画で身を立てようとプロデビューを目指して継続していた雑誌投稿はいずれも不採用。単行本用の大作長編『新世界』の執筆にとりかかるも挫折。新興宗教短編にとりかかっていた12月に、4コマ連載『天使の玉ちゃん』でプロデビューを果たす。
# | 開始年 | 月 | 作品名 | 特記 | 分 担 |
備考 |
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1 | 1950 | 4 | コーパーキャニヨン | 少太陽版 | a | 西部劇絵物語 |
2 | 1950 | 4 | クリップちゃん | f | ||
3 | 1950 | 4 | 地底戦争 | f | 連載科学冒険怪奇探検漫画物語 | |
4 | 1950 | 4 | 漫画スクール | g | 2,4号には掲載(3号は未確認) | |
5 | 1950 | 4 | 3ちゃんの希望探訪 | g? | 漫画家探訪記事(架空)。1,2,5号に掲載(3号は未確認) | |
6 | 1951 | 12 | 天使の玉ちゃん | g | プロデビュー | |
# | ◀1951▶ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
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1 | コパキャ(少 | a | a | ||||||||||
2 | クリップ | f | SU | ||||||||||
3 | 地底戦争 | f | f | ||||||||||
4 | 漫スク | a | |||||||||||
5 | 希望探訪 | PU | |||||||||||
6 | 天玉 | g | |||||||||||
月合計→ | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 |
1951年1/1に「富山新聞」に掲載された『野球天神』(藤本のアマ投稿作)が、公メディア掲載作中で「手塚不二雄」名義が確認できる初の作品?
「手塚不二雄」名義の決定は前年の1950年。
前年1950年(高2時)から肉筆回覧誌「少太陽」の発行を継続していたが、現存している5冊のうちの最後の号は1951年4月号。
プロデビュー用の投稿漫画に専念するために4月号で一区切りをつけたとも考えられるが、次号の構想があった可能性もある(習作の一部は次号用の原稿?)。
5月に単行本用長編の執筆会議を開き『新世界』(後の『UTOPIA』)の執筆に着手。執筆を進め手塚治虫に手紙で赤道祭を祝ってもらうなどするも、10月に頓挫。この年に執筆していたものは、後に単行本で発表される内容とは別のシナリオの作品。
3/19に映画『白雪姫』を見て大感激。後日ディズニーにファンレターを出したところ、『不思議の国のアリス』のパンフレット等が送られてきてますますファンに。
3/26に4コマ漫画『天使の玉ちゃん』を新聞に投稿することを決め、10/14に10本を送付。12/16に連載第1回が掲載された。
『天使の玉ちゃん』がプロデビュー作とされているのは、「原稿料あり」「連載」「読者投稿募集コーナーへの応募ではない」等の理由だと考えられる。
安孫子の漫画やインタビュー等で「手塚治虫先生の『マアチャンの日記帳』が終わったので投稿した」と語られることが多いが誤り。実際は『マアチャンの日記帳』の連載は1946年の3か月間のみで、その後手塚は同紙に別作品を連載している。
アマ漫画投稿を継続し、1951年も多数の作品が採用された。
前年頃からはじめたプロデビューを目指した短編漫画の雑誌投稿は本年も採用なし。
手塚治虫と手紙のやりとりを継続した。この年には小冊子「レポート」をフロクに付けた(下記「その他の作品」参照)。
藤本 | 藤本 | 藤本 | 年 | 月 | 日 | 安孫子 | 安孫子 |
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その他一般 | 漫画少年 | 北日本新聞 | 北日本新聞 | その他一般 | |||
[t]野球天神 (富山新聞) | 1951 | 1 | 1 | グッドバイ (富山新聞) | |||
1951 | 1 | 7 | 千鳥足 | ||||
[t]てれかくし (キング) | 1951 | 2 | 1 | ||||
[t]ギョッ (サンデー毎日) | 1951 | 4 | 15 | ||||
利口すぎらァ | 1951 | 5 | 10 | ||||
1951 | 6 | 6 | [t]選挙違反 ・・・・被告は眼科医 | ||||
[t]天狗昇トビキリ (キング) | 1951 | 6 | 9 | ||||
[t]大奇術 (キング) | 1951 | 7 | 10 | ||||
死なばもろとも | 1951 | 7 | 27 | ||||
[t]公正取引 | 1951 | 7 | 27 | ||||
遠近法 | 1951 | 9 | 10 | ||||
1951 | 10 | 1 | [t]君は誰だ (キング) | ||||
1951 | 10 | 12 | [t]カメラマン ちょっとそのままで |
月 | 日 | できごと | メモ |
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1 | 21 | 「少太陽」新年特大号発行(4冊目。112p) | |
2 | 7 | 「我々の漫画にいきづまりが見えて来た」 | 安孫子の日記 |
2 | 10 | 投稿短編『ハルオくんとカラス』落選 | 書店にて『漫画少年』を確認し落選を知る |
3 | 11 | 安孫子『コーパーキャニヨン』執筆うまくいかず。ディズニイ映画『白鳥の子』を見るため2人で世界館へ。鑑賞後漫画映画制作の夢を語り合う。映画『恋の阿蘭陀坂』を我慢して見て『白鳥の子』をもう1回見る。帰宅すると「キング」の稿料が届いていたので東京の漫画映画製作会社見学行の資金にしようと話し合う | 安孫子の日記。FFLま道3p115など、複数の資料で1949年の日記扱いになっているが1951が正しい(映画『恋の阿蘭陀坂』の公開日は1951/3/3。3/11は日曜日と記されているが合致するのは1951) |
3 | 19 | 『白雪姫』招待試写会。大感激し「ディズニイにファンレターを出そう」と話し合う | 安孫子の日記に「歴史的な日」。複数の資料で年度が誤っている。『白雪姫』の日本公開年月日は1950/9/26。手塚との文通で白雪姫のすばらしさをすでに聞いていた?(手塚は50回鑑賞) |
3 | 26 | 投稿用4コマ『天使の玉ちゃん』の概要決まる | |
3 | 28 | キング『てれかくし』の稿料500円届く | 安孫子の日記 |
3 | 30 | 2人で戦果を見せあい「漫画」「サンデー毎日」「キング」の3種の封筒に分けて送付。「どっしりとした厚さ」「こんなに一度に大量の投稿をするのははじめてだ」 | 安孫子の日記。大量のアマ投稿と、「少太陽」の発行日がわずか2日違いなのは不自然。「少太陽」の発行日は別の日? |
4 | 1 | 「少太陽」第六号発行 | 肉筆回覧誌の発行を一区切りにしてプロを目指すための活動に切り替えた? 次号も出すつもりだったが結果的に出せなかっただけ? |
5 | 19 | 手塚のハンコできる | 活字出版された安孫子の日記では「4/18」だが、同日の「第一回会談」と同様に日付が誤植であれば「5/19」ということになる |
5 | 19 | 「単行本の題材について」の「第一回会談」。6つの案の中から『新世界』(後の『UTOPIA』)に決まる | 活字出版された安孫子の日記では「4/18」だが、藤本の手書きのノートの日付は「5/19」 |
? | ディズニー氏にファンレターを出す | 月日未調査。複数の資料に3月と記されているが誤りの可能性大。複数の資料で年月が誤っている | |
? | ディズニーから『アリス』のパンフ等が届く | 月日未調査。『二少』文庫p45によると2か月後。『アリス』のアメリカ公開日は7/28 | |
? | 手塚治虫に「レポート」を送る | 月日未調査 | |
10 | 14 | 『天使の玉ちゃん』10本を送る | |
10 | 14 | 『UTOPIA』機構改革討論 | 『天玉』の投稿が完了したので『UTOPIA』の作業に戻ろうとしたがうまくいかなかった? |
10 | 18 | 『UTOPIA』制作一時中止を決定。新企画の題材は南北戦争のクー・クラックス・クラン団に決まる | |
12 | 16 | 『天使の玉ちゃん』連載第1回 掲載 | プロデビュー。「あびこもとお ふじもとひろし」名義。連絡がなかったため、作者の2人は連載の事実をまだ知らず |
12 | 22 | 新興宗教をテーマにした短編を描くことが決まる | |
12 | 29 | 『天使の玉ちゃん』が連載されていることを2人が知り驚愕歓喜 | この日藤本宅に郵便為替が届く |
12 | 31 | 『天使の玉ちゃん』追加原稿5本を送る |
手塚治虫へのファンレターに同封したフロク。
『まんが道』文庫14p65から紹介されているものは『まんが道』用に描かれたもので、文も絵も当時のものとは異なる(「足塚」名義は当時は使っていない)。
『天使の玉ちゃん』がデビュー作とされているが、この年に執筆した『UTOPIA』の原稿の一部が1953年発行の単行本に流用されているとすれば、それらは『天使の玉ちゃん』よりも早い時期に執筆されたことになる。