足塚不二雄

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藤本弘安孫子素雄のコンビ(のちの藤子不二雄)が1952年11月から1953年夏までのごく短期間にだけ使用した共同ペンネーム。

それまでは共同ペンネームとして手塚不二雄を使用していたが、手塚治虫の「手塚」をそのまま使うことはおそれおおいと考え、「足なら手より下だからよかろう」と「足塚」にしたというのが由来。

「手塚治虫の足元におよびたいと願ってつけた」というのはデマ。

よみ】あしづか ふじお

】Ashizuka, Fujio

「足塚不二雄」名義作品一覧

判明している発表作品は下記の4つのみ。執筆開始順と発表順とで、順番が大きく異なる。

執筆開始順

#執筆開始年月作品名備考
11951.5UTOPIA 最後の世界大戦高3時に着手するも数か月で頓挫。1952.3以降のいずれかの時期(4月?)に出版社から手紙で依頼され再着手。脱稿時期は不明だが1年以上かかったとのことなので1953.4以降か
21952.7-8頃西部のどこかで漫画ランドに8月完成の記述
31952.8-9頃三人きょうだいとにんげん砲弾投稿した『西部のどこかで』が一発採用され、折返し別冊付録の依頼。締切を1週間遅延したとのことから脱稿時期は9月末〜10月上旬?
41952.10-11頃四万年漂流

発表順

#発表年月作品名備考
11952.11三人きょうだいとにんげん砲弾漫画王別冊。漫画王の発売日は冒険王の3日前
21952.11西部のどこかで冒険王読切
31953.1四万年漂流冒険王連載(2〜7月号)
41953.7UTOPIA 最後の世界大戦描き下ろし単行本。8/10付の発行だが7月には世に出ていたと推測

未発表作

「足塚不二雄」名義での発表作品はすべて合作

手塚不二雄」と「藤子不二雄」は、「合作」でも「単独作」でも使用する共同ペンネームだが、「足塚不二雄」名義で発表された作品はすべて合作である。

ただし、足塚不二雄名義の未発表作『燃える地球』は合作か単独作かは不明。足塚名義の未発表作は他にも複数存在する可能性が高い。

「足塚不二雄」名義の成立

遅くとも『西部のどこかで』の執筆時までに決められたと考えられる。

「足塚不二雄」名義の終焉

藤本の手書きノートの「藤子不二雄」のペンネームを検討した形跡のあるページには1953年5/30〜6/6の日付と曜日が書き添えてある。『四万年漂流』の最終回掲載誌の発売は6月上旬なので、その発売を待たずに5月中には新ペンネーム「藤子不二雄」がすでに考案されていたと推測できる。

この年代のその他の名義作品

安孫子は勤務する「富山新聞」に本名や素野安彦などの名義で単独作品を多数執筆した。

デマや誤情報について

「はじめて世に出た足塚不二雄名義作品は『西部のどこかで』」というのはデマ

「漫画王」の発売日は「冒険王」の3日前なので『三人きょうだいとにんげん砲弾』が先に発売された。

「原稿落とし事件を起こしたのは足塚不二雄」というのはデマ

大量の原稿遅延・原稿落とし事件を起こしたのは1955年の正月なので、藤子不二雄時代である。『まんが道』では原稿落とし事件後に「足塚」→「満才」に改名するストーリーになっているため誤解されがちな状況となっている。