藤子不二雄

Last update

日本のコンビ漫画家。

藤本弘安孫子素雄がコンビ漫画家として活動した年代に使用した共同ペンネーム。
1953年から1988年にかけて約34年半使用した。

「藤子不二雄」名義で発表された代表作は、

など多数。

改名前に使用した共同ペンネームは手塚不二雄を経て足塚不二雄

よみ】ふじこ ふじお

】Fujiko, Fujio

コンビ時代はすべて「藤子不二雄」名義

略歴

※コンビ漫画家「藤子不二雄」として活動した藤本と安孫子の略歴(前後含む)

藤本は1933年12月1日、安孫子は1934年3月10日生まれ(同学年)。
1951年に合作『天使の玉ちゃん』でデビュー(高校3年生)。
コンビ漫画家として合作・単独作問わず1つの共同名義で発表する方式をとり、1953年からペンネームを「藤子不二雄」とし、多数の作品を発表。合作『オバケのQ太郎』は社会的なブームとなり、安孫子単独作の『忍者ハットリくん』『怪物くん』も大人気を獲得。中でも藤本単独作の『ドラえもん』は世界的な大ヒット作となった。
1988年からはそれぞれ1人の独立した漫画家として活動。藤本は「藤子不二雄Ⓕ」、安孫子は「藤子不二雄Ⓐ」を新ペンネームとした(藤本のペンネームは1989年に「藤子・F・不二雄」に改められた)。
藤本は1996年9月23日没(62歳)。安孫子はその後も単独で多数の作品を発表後、2022年4月6日没(88歳)。

主な作品

1987年以前に「藤子不二雄」名義で発表

独立後

全連載図も参照

表記ゆれ

「藤子フジオ」「フジコフジオ」「ふじこふじお」等の表記で作品を掲載することもあった。例えば、「漫画少年」1955年8月号には「藤子フジオ」または「フジコフジオ」の名義で3つの作品が掲載されており、「藤子不二雄」名義は使われていない。「リイドコミック」1975年4.18号では、連載『さすらいくん』の題字の下には「フジコフジオ」、連載『パーマンゴルフ』の題字の下には「え・文/藤子不二雄」と記されている。

デマや誤情報について

「藤子不二雄」表記=合作というのはデマ

コンビ時代は、合作でも単独作でも「藤子不二雄」という共同ペンネームで発表された(上図参照)。

2025年現在、共同で権利を有する単行本の著者名は「藤子・F・不二雄」と「藤子不二雄Ⓐ」を併記する方式がとられ、「藤子不二雄」名義は使用されていない(下図参照)。

1988年の独立後から2000年代まで、てんとう虫コミックスの巻末に掲載されたリスト(広告)の『オバQ』と『新オバQ』の作者表記が「藤子不二雄」となっていたことから誤解されたデマ。これはこの広告自体が元々誤っており、独立後に新しく刷られた単行本で合作の著者名義として「藤子不二雄」が用いられた例はない。「知識不足の編集者による単純ミス説」と「新オバQが合作であることを熟知した編集者による確信犯説」がある。なお、両作とも合作だが、『新オバQ』は独立後に権利上は藤本単独作扱いとなった(1988年の藤子不二雄ランドの奥付で確認できる)。

藤子・F・不二雄」または「藤子不二雄Ⓐ」の単独表記=単独作というのはデマ

コンビ活動終了時に、過去作品は合作も含めてなるべくどちらかの単独権利となるように振り分けられた。『パーマン(1960s)』『わかとの』『新オバケのQ太郎』『きえる快速車』等は合作だが、独立後は単独名義で出版されており、合作である旨の明記もない(#主な作品を参照)。つまり、著者名が単独表記されていても合作の場合がある。

単独名義でも合作の場合がある

「オバQは合作だが、新オバQは藤本だけで描いている」はデマ

どちらも合作である。『オバケのQ太郎』は、1964年の連載開始当初は、週によってどちらかがネーム(話作り)を担当して両者がキャラごとに作画する完全半々の合作。その後、安孫子がネームを担当する回はごくわずかになり(安孫子は『忍者ハットリくん』『怪物くん』等の単独作連載を複数抱え多忙になったため)、基本的にネームは藤本が担当するようになったが、1976年の最後の読切(新オバQと呼ばれる時期)まで安孫子も正太の作画を担当している。

独立後は『オバケのQ太郎』は共同権利、『新オバケのQ太郎』(19711974連載、1976読切。「新」は単行本のみの表記)は藤本単独権利作品扱いだが、オバQ末期の執筆分担と、新オバQの執筆分担に差異はない。両作の売上が同額ならば「藤本7.5」「安孫子2.5」というちょうといい配分になり、売上計算も楽になることから決められた権利配分と考えられる。

「『パーマン』は藤本だけで、『わかとの』は安孫子だけで描いている」はデマ

どちらも合作である。

『パーマン』は藤本メイン作だが、安孫子がパーマン2号、スーパーマン、カバ夫、サブらの作画を担当。『わかとの』は安孫子メイン作だが、藤本が主役のわかとのの作画を担当。ただし、1980年代の『パーマン』連載は藤本単独作で、『怪人わかとの』は安孫子単独作。

計算をシンプルにするために『パーマン』の権利は藤本単独にし、その代わり『わかとの』『きえる快速車』等の権利は安孫子単独に振り分けられたものと考えられる(複数作品の振り分けのバランスを考えて決められているため、権利分配と作品自身の合作度には相関関係はない)。

「安孫子は作画をちょっと手伝っただけなので『パーマン』は合作ではなく藤本単独作品」はデマ

安孫子がファン相手のインタビューで「あれはちょっと手伝っただけ」と答えたことから広まっているデマだが、このインタビューは藤本死去から十数年経ってからのものであり、すでに『パーマン』が藤本単独権利作品として扱われている時代のものである。

つまり安孫子は藤子プロ(藤本作品の管理会社)に過剰に気をつかって「ちょっと手伝っただけ」と回答したのである。当然ながら1960年代の連載当時は安孫子自身も合作という認識で執筆している(当時の雑誌記事には2人でキャラごとに作画を担当している合作であることが記されている)。

「両者で絵を描いている作品でも、ちょっと作画を手伝っただけということなら合作ではない」と勘違いしている人の姿もよく目にするが、まったくの誤り。

「ケンカして別れた」「金で揉めて別れた」はデマ

1987年末に独立を発表し、1988年1月に独立パーティを開いてそれぞれで個別の活動を行うことになったが、その大きな要因は1986年に藤本が胃がん手術を行い、1987年に再度体調を崩して長期療養を余儀なくされたこと(全連載図を参照)。藤本と安孫子は終生友人関係を続けた(独立を提案したのは藤本。藤本は体調が万全でない中、自分の漫画執筆に専念できる環境が必要だった? 死を意識したことで、生前に作品の権利を分けておく必要性を感じた?)。

「合作と共作は同じ意味」はデマ

「合作」は、文字通り、作品を単独ではなく藤本と安孫子の2人で描いているという意味。

「共作」は、藤子不二雄がコンビ活動をやめて独立した後から使われるようになった言葉で、意味合いとしては「共同作品権利」の略。つまり独立後に作品が「単独権利扱いになったか」「共同権利扱いになったか」を表しているに過ぎず、作品自体が「単独で描かれた」か「合作」かとは無関係である。

藤子不二雄においてはもっぱら「合作」という言葉が用いられており、「共作」という用語が登場したのは1988年の独立後以降なのだが、多くの人が「共作」を合作と混同していることが誤解の発生源となってしまっている。

『パーマン』『わかとの』等の作品は独立後は単独権利になったが合作である。

2025年現在の単行本等において「共作かどうか(独立後に共同権利になったかどうか)」はおおむね明記されているが(作品によっては記載が漏れていることもある)、「合作かどうか」は一切明記されていない。

2025年現在、「共作」は「共著」と表現されることもある。この場合の「共著」も独立後に「共著権利扱いとなった」か「単独著権利扱いとなったか」を区別しているに過ぎず、実際の執筆時に「共同執筆」か「単独執筆」かとは無関係である。

「1952年プロデビュー」はデマ

正しくは1951年。

藤子不二雄の単行本等の著者略歴には長らく「昭和27年(1952年)『天使の玉ちゃん』でプロデビュー」等の内容が記載されていたが誤り。「単なる誤植」説と、「連載開始が年末だったので、藤本と安孫子があえて翌年をプロデビュー年と称していた」説がある。

「藤子不二雄への改名は1954年」はデマ

正しくは1953年。

藤本死去後のある時期まで「1954年」という誤った情報が定説のように各書籍に掲載されていたが、その後、一部の書籍で正しい「1953年」の記載となった。2025年現在も一部の書籍は「1954年」の誤記載のままで流通している。

Fミュージアム公式サイトの年表藤子プロ公式サイトのプロフィールは2025年4月現在でも古い情報がアップデートされておらず、「藤子不二雄」は1954年の位置に記載されたままで、誤りが長年拡散され続ける元となっている。

初期ペンネーム

「漫画家デュオ」「漫画家ユニット」と称したというのはデマ

「漫画家デュオ」「漫画家ユニット」という呼称は一般人がネットに書き込んだことにより主に2010年以降に拡散したもの(ネットスラングの一種)であり、藤子不二雄が実際の活動期間に広く用いた呼称ではない。活動当時、実際に広く用いられた呼称は「コンビ漫画家」「2人で1人の漫画家」など。

「1988年の独立(コンビ解消)後、1996年のF死去後も長年権利関係で揉めてきたが2010年頃になんとか解決してF大全集でオバQが出た」はデマ

1987年末までに藤本と安孫子で独立の合意と話し合いが行われ、ほぼ全作品がどちらの帰属になるかが円満に決められている。

その結果、合作の多くはどちらかの単独名義となり、ごく少数の合作のみが両名義併記扱いとなった。

漫画オバQの権利も1987年に「無印は両名権利」「新はF単独」と決められている(上記も参照のこと)。オバQがAランド(2002–2005)に含まれなかったのは、藤子プロ(Fの会社)が許可しなかったためである。藤子プロは小学館の社員が出向して作った会社であり、「将来的に自社で出版予定のF大全集等でF作品を独占したいから」というのがその理由。小学館は実際にF大全集(2009–2014)でオバQを出版した。

つまり、Aの会社がもし特定の出版社との偏った力関係をもっており、F大全集の発行時に「オバQを不許可」にしていたならばF大全集にはオバQは含まれなかったということである。実際にはAの会社は特定の出版社に影響を及ぼされるような立場にはなく、安孫子自身もオバQが出版されて幅広い読者に届くことに異論はなかったであろうから不許可にはならなかっただけのことである。

このような事情を知らない漫画評論家等が、表面上の事実だけで妄想力を働かせて「近年まで揉めていたがようやく決着した」というデマを生み出し、それが拡散されているというのが嘆かわしい現状である。

ちなみにF大全集の『オバQ』はFとAの共著扱いであり、印税は双方に入る(レーベル名が「F大全集」なだけ)。

「1988年の独立(コンビ解消)後、全作品で完全に権利が確定しており、不明瞭な点はない」もデマ

1987年に藤本と安孫子との話し合いによりほぼ全作品の権利が円満に分配されたことは上の項目に記したとおりだが、ごくわずかに例外もある。

漫画『バラとゆびわ』

『バラとゆびわ』は「トキワ荘パワー!」(2010)に「藤子・F・不二雄」単独名義作品として収録され、F大全集「初期少女・幼年作品集」(2011)に共作との注釈はなしで収録されたが、その後すぐF大全集の月報(挟み込みの付録)にて「Aとの共作」である旨の訂正が掲載され、それ以降は共作として扱われている。

なぜこのようなことが起こったのか。藤本と安孫子はビッグ・コロタン「藤子まんがヒーロー全員集合」の作品リストに書き込む形で権利分配を話し合ったのではと推測されており、コンビ解消後に増刷された同書には実際に「どちらの権利になったかを表すマーク」が付記されているのだが、ここで『バラとゆびわ』には丸Fマークが付いている。そのため、Fの単独権利だと勘違いされて2010–2011年の出版に至ったが、これは誤植だったのではという説が有力である。実際に、このリストには他にも誤植が複数ある。

『バラとゆびわ』は藤本がメインで執筆した作品だが、安孫子も多くの部分を手掛けており、ラストシーンはのちに『怪物くん』の最終回にも取り入れられている。

アニメ『新オバケのQ太郎』

漫画オバQの権利分配が1987年に藤本と安孫子によって円満に行われたことは上の各項に記したが、アニメ『新オバQ』ついてはよくわかっていない。

アニメ『オバQ』は両者の共同権利作品であることは明確である。

アニメ『新オバQ』が漫画の無印オバQと漫画新オバQ部分を併せ持つアニメだということを考えればFとAの共同権利と考えるのが自然である。ただし、「『新オバQ』という題名なのでF単独権利」という合意が1987年に藤本と安孫子の間でなされていたならばF単独権利ということになるが、その点は明らかにされていない。

リスト漏れ作品

読切などの細かな漫画でビッグ・コロタン「藤子まんがヒーロー全員集合」の作品リストに掲載されていないものが複数存在する。作品の権利分配はF大全集別巻、『@ll藤子不二雄Ⓐ』等に掲載されているリストで確認できるが、これらのリストにも未掲載の作品があり、誤記、誤植があることも指摘されている。

もっとも、新たな作品が発掘されても合作かどちらの単独作品かの判別は比較的容易だし、大きな金額が動くような作品が新発見される可能性は低いので、権利問題で揉める心配は無用である。

誤情報について

藤子不二雄の伝記、公式書籍には多数の誤りやデマが記載されている(年代の誤り、「ドラえもんの身長129.3は小学生の平均身長が由来」等のデマ、『まんが道』のフィクション記述を真実だと勘違いしたデマ等)。研究本、同人誌も同様。ネットの誤情報をコピペして作られた書籍記事もあるため、「紙に印刷された情報」が正しいとは限らない。複数の情報源をつきあわせて精査する必要があるが、1冊の書籍の誤情報の引き写しが複数の書籍に掲載されている場合もあるので、情報源が多いからといって正しい情報とは限らない。

その他のデマ

デマを参照。

コンビ時代のその他の共同ペンネーム