藤子作品のうち「1950〜1952年に公の媒体に掲載されたアマチュア投稿作品」の一覧(おそらく表に未掲載の作品あり)。
藤本 | 藤本 | 藤本 | 年 | 月 | 日 | 安孫子 | 安孫子 |
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その他一般 | 漫画少年 | 北日本新聞 | 北日本新聞 | 漫画少年 →その他少年誌 →その他一般 | |||
1950 | 2 | 10 | ドンチャン | ||||
こんな小供に誰がした | 1950 | 2 | 26 | 冬来たりなば | |||
ああ無情 | 1950 | 3 | 9 | ドングリ君 | |||
種まき奇談 | 1950 | 3 | 10 | ||||
花咲爺さんの嘆き | 1950 | 4 | 4 | ||||
1950 | 4 | 6 | 商人はかくあるべし | ||||
1950 | 4 | 11 | 今様大久保彦佐 | ||||
幼児の心理 | 1950 | 4 | 14 | ||||
1950 | 4 | 24 | あゝ宣傳とは つらきものじゃ | ||||
時の記念日 | 1950 | 5 | 10 | ||||
1950 | 5 | 20 | あらいやだ | ||||
りんきおうへん | 1950 | 6 | 3 | ||||
スピード興業 | 1950 | 6 | 11 | ||||
1950 | 6 | 26 | 何の日? | ||||
諸行無常 | 1950 | 7 | 3 | ||||
ダンゴ仙人とたなばた | 1950 | 7 | 10 | ||||
コロコロマダム | 1950 | 7 | 18 | ||||
1950 | 7 | 19 | チャッカリ坊や | ||||
奇禍 | 1950 | 8 | 27 | ||||
1950 | 9 | 7 | 「てんぐのおめん」 (少年) | ||||
はかられたか! | 1950 | 9 | 9 | ||||
サンドウィッチマン | 1950 | 9 | 26 | ||||
1950 | 10 | 1 | 巨人ファン (少年ジャイアンツ) | ||||
(特等入選漫画) | 1950 | 11 | 10 | ||||
かるたとり (週刊市民新聞) | 1950 | 12 | 31 | うさぎの年 (週刊市民新聞) | |||
[t]野球天神 (富山新聞) | 1951 | 1 | 1 | グッドバイ (富山新聞) | |||
1951 | 1 | 7 | 千鳥足 | ||||
[t]てれかくし (キング) | 1951 | 2 | 1 | ||||
[t]ギョッ (サンデー毎日) | 1951 | 4 | 15 | ||||
利口すぎらァ | 1951 | 5 | 10 | ||||
1951 | 6 | 6 | [t]選挙違反 ・・・・被告は眼科医 | ||||
[t]天狗昇トビキリ (キング) | 1951 | 6 | 9 | ||||
[t]大奇術 (キング) | 1951 | 7 | 10 | ||||
死なばもろとも | 1951 | 7 | 27 | ||||
[t]公正取引 | 1951 | 7 | 27 | ||||
遠近法 | 1951 | 9 | 10 | ||||
1951 | 10 | 1 | [t]君は誰だ (キング) | ||||
1951 | 10 | 12 | [t]カメラマン ちょっとそのままで | ||||
[t]遺作 (アサヒグラフ) | 1952 | 4 | 2 | ||||
1952 | 5 | 28 | [t]サア アーン (アサヒグラフ) |
表の下部分を隠して1行ずつ見ていくと、2人の投稿採用状況が刻々と変化していく様子がわかり、一喜一憂したり、互いに意識して競ったりしたであろう様子を想像できる。
アマチュア漫画投稿を開始?(1950年2月発売号掲載作品は1949年に執筆されたと思われる)
1949以前から投稿を行っていた可能性もある?(古い掲載作品が見つかっていない可能性、不採用になったが投稿自体は行っていた可能性)
2月に安孫子のコマ漫画が「漫画少年」に初掲載。『まんが道』では「漫画少年」に才野だけが初入選して満賀がワダカマリを持ち2人の間にミゾができるエピソードに改変されているが現実は逆。「おかしいな ボクのまんががのっておまえのやつがのってないなんて!」という才野の台詞は、安孫子が藤本に言った台詞だった可能性がある(ただし安孫子の「漫画少年」への掲載はこれ1回のみ)。
3月に藤本の2pの漫画『種まき奇談』が「漫画少年」に掲載。前号で苦汁をのんだ藤本が大きく巻き返した形(作品の執筆時期はおそらく前号発売よりも前)。藤本はこの年、「漫画少年」に4回掲載という実績をあげる。この月に手塚治虫が藤本宛で書いたハガキ(手塚からの初の便り)はこの2p漫画掲載を受けてのもの。
藤本は「漫画少年」の常連掲載者となる(4回掲載)。一方で安孫子は名前のみの掲載(上位に入選しないと作品は掲載されないしくみだった)にとどまったため、他の少年誌にも活路を求め、「少年」に4コマが、「少年ジャイアンツ」に1p漫画が掲載されるという実績を残す(藤本も他の少年誌に投稿していたかどうかは未調査)。
掲載数だけで判断するならば、2人の投稿の主戦場は「北日本新聞」。2月から9月にかけて藤本10本、安孫子8本が掲載。
「手塚不二雄」名義に移行し、大人雑誌で賞金を荒稼ぎ。12月にはプロデビューを果たした。
「毎日小学生新聞」に連載を持つ身となり、春には高校を卒業したこともあり、アマチュア漫画投稿は4月掲載分をもって一区切り。3月には前年に荒稼ぎした賞金も用いて大阪の手塚治虫邸を訪ね、手塚と初対面。手塚からの紹介で描き下ろし単行本の仕事を得る。