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藤子作品のうち「19501952年に公の媒体に掲載されたアマチュア投稿作品」の一覧(おそらく表に未掲載の作品あり)。

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# 題名 執筆者 手塚名義 種別 媒体 所収 備考
11950210ドンチャンa m 3mg 4 道剖p119、NU58 漫画少年への掲載は安孫子が先
21950226冬来たりなばa k 4 AAW
31950226こんな小供に誰がしたf k 4 FP 複数の資料等で題名誤り
4195039ドングリ君a k 4
5195039ああ無情f k 4
61950310種まき奇談f m 4mg 2p FP
7195044花咲爺さんの嘆きf k 4
8195046商人はかくあるべしa k
91950411今様大久保彦佐a k 複数のwebで題名誤り
101950414幼児の心理f k 4 FP
111950424あゝ宣傳とはつらきものじゃa k 4 複数のwebで月誤り
121950510時の記念日f m 6mg 4 FP
131950520あらいやだa k
14195063りんきおうへんf k 4 FP
151950611スピード興業f k 4 FP
161950626何の日?a k
17195073諸行無常f k 4
181950710ダンゴ仙人とたなばたf m 8mg 4 FP
191950718コロコロマダムf k 4 FP
201950719チャッカリ坊やa k
211950827奇禍f k 4 FP
22195097「おんやてんぐのおめんがおちてるぞ」a e 少年 10mg 4 AAW チンパンジークラブ第1回入選
23195099はかられたか!f m 10mg 4 FP
241950926サンドウィッチマンf k 4 FP
251950101巨人ファンa e 少年ジャイアンツ 11mg 1p 題名の「巨人」の読みは「ジャイアンツ」。コマ内の作者名は「アビコモトオ え」。SNS情報
2619501110(特等入選漫画)f m 12mg 掲載はなし
2719501231うさぎの年a e 週刊市民新聞 一月新春号 1 外実 12/4執筆。表の「月日」は1951/1/7付の18号(1950/12/31配送)と仮定して記載。日曜発行。1951/5/20付の37号を確認済
2819501231かるたとりf e 週刊市民新聞 一月新春号 4 外実
29195111グッドバイa e 富山新聞
30195111野球天神f t e 富山新聞 1
31195117千鳥足a k
32195121てれかくしf t e キング 3mg 2 3/28賞金到着(FFLま道3の日記)
331951415ギョッf t e サンデー毎日 4/22g 4 FN
341951510利口すぎらァf m 6mg 4 FP 11/29執筆?(コマ内に「1950.11.29」とも読める記載あり) 複数の資料等で題名誤り
35195166選挙違反・・・・被告は眼科医a t k
36195169天狗昇トビキリf t e キング 7mg 4 4/22の安孫子の日記に「天狗昇とびっきり入選」「今月の戦果は漫画1、サンデー毎日1、キング1」との記述
371951710大奇術f t e キング 8mg 4 3/27執筆
381951727死なばもろともf k 1
391951727公正取引f t k 4
401951910遠近法f m 10mg 1 FP 8/8執筆
411951101君は誰だa t e キング 11mg 4 AAW 7/31執筆
4219511012カメラマン ちょっとそのままでa t k 紙面では「手塚不二夫」(誤植)
43195242遺作f t e アサヒグラフ 4/9g 4 誌面では「牛塚不二雄」(誤植)。これ以降はプロデビュー後の掲載
441952528サア アーンa t e アサヒグラフ 6/4g 1

メモ

概歴

表の下部分を隠して1行ずつ見ていくと、2人の投稿採用状況が刻々と変化していく様子がわかり、一喜一憂したり、互いに意識して競ったりしたであろう様子を想像できる。

1949

アマチュア漫画投稿を開始?(1950年2月発売号掲載作品は1949年に執筆されたと思われる)

1949以前から投稿を行っていた可能性もある?(古い掲載作品が見つかっていない可能性、不採用になったが投稿自体は行っていた可能性)

1950

2月に安孫子のコマ漫画が「漫画少年」に初掲載。『まんが道』では「漫画少年」に才野だけが初入選して満賀がワダカマリを持ち2人の間にミゾができるエピソードに改変されているが現実は逆。「おかしいな ボクのまんががのっておまえのやつがのってないなんて!」という才野の台詞は、安孫子が藤本に言った台詞だった可能性がある(ただし安孫子の「漫画少年」への掲載はこれ1回のみ)。

3月に藤本の2pの漫画『種まき奇談』が「漫画少年」に掲載。前号で苦汁をのんだ藤本が大きく巻き返した形(作品の執筆時期はおそらく前号発売よりも前)。藤本はこの年、「漫画少年」に4回掲載という実績をあげる。この月に手塚治虫が藤本宛で書いたハガキ(手塚からの初の便り)はこの2p漫画掲載を受けてのもの。

藤本は「漫画少年」の常連掲載者となる(4回掲載)。一方で安孫子は名前のみの掲載(上位に入選しないと作品は掲載されないしくみだった)にとどまったため、他の少年誌にも活路を求め、「少年」に4コマが、「少年ジャイアンツ」に1p漫画が掲載されるという実績を残す(藤本も他の少年誌に投稿していたかどうかは未調査)。

掲載数だけで判断するならば、2人の投稿の主戦場は「北日本新聞」。2月から9月にかけて藤本10本、安孫子8本が掲載。

1951

「手塚不二雄」名義に移行し、大人雑誌で賞金を荒稼ぎ。12月にはプロデビューを果たした。

1952

「毎日小学生新聞」に連載を持つ身となり、春には高校を卒業したこともあり、アマチュア漫画投稿は4月掲載分をもって一区切り。3月には前年に荒稼ぎした賞金も用いて大阪の手塚治虫邸を訪ね、手塚と初対面。手塚からの紹介で描き下ろし単行本の仕事を得る。

名義

上記の表に含まれないもの